kokyuu

 いつくたばってもおかしくない爺です。存在の意味について、日々思いついたことを書き綴ったものです。 このテーマに興味のある方だけ見てください。 (途中から日々雑感等の増量剤でふやけた味になってます)

すべての法の中で、不放逸こそが最上の法である。

呼吸


(パティパダー巻頭法話「仏道は不放逸に極まる 智者は世の流れを渡る」アルボムッレ・スマナサーラ長老 より抜書引用させていただきます)

怠りなまけている人々のなかで、ひとりつとめはげみ、
眠っている人々のなかで、ひとりよく目醒めている思慮ある人は、
疾くはしる馬が、足のろの馬を抜いてかけるようなものである。
(日本語訳:中村元『ブッダの真理のことば 咸興のことば』岩波文庫より)


お釈迦さまは、仏道を〈不放逸appamāda〉という一言にまとめたのです。反対の言葉は〈放逸pamāda〉です。…

放逸の生き方は、生命の自然の流れです。快楽を追い求めるのは自然です。苦難から逃げることも、身を守るために他人と戦うことも、自然の流れです。身体の要求に応じることも、「肉体を維持管理して守ることだけが生きることだ」と理解するのも自然です。生命が何かを判断する場合は、感情に従うのです。つまり、身口意の行為を感情の司令で行うのです。私たちは「人は死ぬ」ということを知っていますが、「自分は死なない」という前提で生きるプログラムを実行しています。このような生き方は、俗世間においては自然の流れです。生命は、生まれて、成長して、老いて、病に罹って、必ず死ぬのです。人が真面目に生きたからと言って、得るもの、達するものは、何ひとつもありません。その虚しい生き方への解決策として、お釈迦さまが不放逸を提案したのです。…

不放逸とは超越道そのものであると理解していない人々が多いのです。放逸には、怠けるという意味もあります。だから、不放逸は「怠けないこと」になります。…

出家が「不放逸とは怠けないことだ」と誤解すると、精神的な向上は何ひとつも得ることができずに、凡夫のまま人生を終えるはめになります。残念なことに、appamādaの日本語訳も「怠りなまけることなく、つとめはげむこと」になっているのです。…


不放逸とは、今の瞬間の現象を客観的に観察することです。…

今の瞬間に気づかず、過去の思考妄想、将来の思考妄想に絡まって生きることを、ブッダは「寝ている状態である」と言います。なぜならば、寝ている人も現実に気づかないからです。彼らは夢の中で生きています。…

鈍足の馬を駿馬がいとも簡単に抜き去ってしまうように、不放逸の人は俗世間を抜き去って解脱に達するのです。

(以上。強調処理は私です)

[感想]

あなたのせっかく出したやる気が、毎回あっという間に消えてしまうのはなぜでしょうか。

その原因は、あなたが

不放逸(アッパマーダ)の意味を、まったくはき違えているからです。

ブッダの遺言は

怠ることなく精進せよ(=不放逸)

だった。


ブッダは常々「不放逸は不死の境地である。
放逸の人は死人に等しい」と説いた。


ブッダの「怠るな」が、とにかく何でもまじめに精一杯がんばれ、といったあやふやな指示ではないとわかるだろう。何事もさぼらず真剣にやるという普通のことが、不死の境地とはいえないからだ。

ブッダの不放逸は、

一般人が、日々の仕事を一所懸命真面目にやるとかいう意味では、まったくない。


一方、
昔から山奥に何十年も籠って、命も惜しまず修行に励む苦行者たちも、たいていブッダの不放逸から酷くずれていた。

血を吐くほど死に物狂いに日々仕事しても、あるいは山奥で独り真面目に修行しても、
そこに不断のサティがあれば不放逸となるが、サティがないときはただの煩悩で「血を吐くほど一心不乱に寝てる人」だ。

正反対に見えるこの両者は、実は同じ精神状態なのだ。


仏法のポイントはたった一つ、サティがあるかないかだけ。


何をしようと、サティがないなら、怠けてるのです。

これは、世の常識とは明確に違いますが、よくよく考えれば、人生最大の真理だと理解できるとおもいます。

ブッダの遺言「怠るな」は、
サティを怠るな
という意味だ。

「今ここ(瞬間の現在)」に気づき続けよ
という端的な指示だ。

ブッダ入滅に立ち会った

当時の弟子たちは皆、

それをはっきり知っていた。

(パティパダー巻頭法話「実らない修行と実る修行」
慢を避けて気づきに励む
より抜書引用させていただきます)

…放逸
パーリ語のpamādaは「怠ける」という意味でも使いますが、用語として使う場合は、「現実に気づかない(放逸)」という意味になります。眼の前の現実に気づかない場合は、その人のこころが現実離れの何かを思考・妄想しているのです。放逸の反対語は、「気づきsati」です。もし修行者が精神的な上達を期待しているならば、放逸は猛毒になります。気づきこそが、こころを成長させる唯一の手段なのです。…

ヴィパッサナー実践をする方々に、厳しく「実況中継」を課していることは、皆様方も知っているでしょう。「せっかく瞑想しようと思ったのに、実況中継とはなんなのか?
瞑想にならないのではないか?」という疑問も起きたことでしょう。実況中継とは、いまの瞬間に気づくための手段です。この方法でなければ、いまの瞬間に気づくことができなくなるのです。ブッダの瞑想を実践したいと思うならば、皆、気づき・実況中継こそが入り口であると理解しなくてはいけないのです。気づきがなければ、こころの成長も、解脱も成り立たない。…

思考・妄想を制御しようとするならば、捏造しないことに励まなくてはいけません。そのためには、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に執着しないで放っておく訓練が必要です。…

気づきsatiこそが、こころを清らかにする唯一の道です。私たちは、それを実況中継という手段で実践しています。人格向上も、こころを清らかにすることも、一切の煩悩を無くして解脱に達することも、気づきの実践で実現できるのです。

今回のポイント

  • 慢は慢性疾患

  • 思考・妄想は成長の障害

  • 言葉の沈黙よりもこころの沈黙が大事

  • 気づきは解脱への門

(以上。強調処理は私です)

サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。

ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。

(過去記事編集再録)

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