世界中で今も戦争とイジメが止まず平和が来ないのは誰のせいか
「ウォー/黒い戦争」
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曲の良さに映像のプレゼン的アイデアがプラスされてる。Edwin Starr - War (What Is It Good For?)
戦争が止まない原因は、
死の商人や悪徳政治家じゃなく、
普通の人々の心にある。他にはない。
戦争で金を儲け平和になると儲からなくなる者達にとって、戦争は明らかに望ましいものだ。
しかし戦争が次々起こり平和が来ない真の原因は彼らではないことに気づかないと、戦争が止むことは決してない。
戦争の真の原因は、ごく普通の人々が
「自分は死んでも生きてる」
という幻想に取り憑かれてることだ。
人々がこの妄信を改めない限り、戦争で金を儲けようとする者がこの人々の中から次々育ち、戦争は繰り返される。
「俺、俺のもの」を(幻想と知らず)
自明の大前提にしてる現代人は
やられたらやりかえせ。
殺される前に殺せ。
という恐ろしい主張を、
今でも100パー正しいと確信し
全力で支持する。
実に
考えれば考えるほど、
彼はそうせざるを得なくなる。
彼には、他の考え方は絶対できないのだ。
なぜなら
「俺、俺のもの」
の奴隷である現代人は、
今も原始人のままなのであり、
「俺、俺のもの」は幻想だと言われたら
「…あほが」と侮蔑し聞き流す。
賢愚を問わず誰もが、
「俺」ほど確実な実感は他にない
絶対に絶対にない
と思いこんでるからだ。
世間で数千年も崇められてきた
宗教や哲学という「物語」も、
すべて
「俺、俺のもの」を
自明の大前提にして、
紡ぎだされた妄想にすぎない。
日中~太平洋戦争で日本人310万人が残酷に殺された。
人間一人一人に隠された我欲こそが、この無残極まる結果を招いた真の原因であることは間違いない。
鉄玉を飲むような苦しみを味わって、戦後何十年か経っと「羹に懲りて膾を吹く」が、早くも「のど元過ぎれば」に弛緩した。
人間の犯罪的な貪瞋痴の愚かさは、また同じ過ちを犯すだろう。
本当に驚くべきことだが、人々は、臼に入れて穀物と共に杵でついても(あの戦争を経ても)なにひとつとして変わらなかったからだ。
だから近頃、多くの国家が再び軍国主義にはためき始めてるのは驚くに値しない。
今、ブログでも、宗教系のyoutubeでも、無我を軽々しく扱う人が急増してる気がする。
「ああ無我でしょ。自我ってほんとは無いよって話。知ってますよ。わたしちゃんと理解してますよ」
と平気で言う人が出てきた。おれが若い頃ほとんどいなかったのに。彼らの共通の特徴は、できるだけ死と苦諦抜きで、悟りを説くことだ。死と苦諦は自他共にウケないから、脇に退けて人目に触れないようにしてる。この判断は、彼らにとって正しい。実際、世の大多数の人々は、苦諦を蛇蝎の如く嫌ってるからだ。まして「死の観察」などは。それを証するように現代社会では、死は能う限り周到に隠されてる。
これは忌忌しき事態だとおもう。
なぜなら、こういう人は、
無我はわかっているのに、
欲望むさぼりのある人になる
という、ある意味最悪のゾーンに落ちやすいからだ。
日本はこの前の戦争中、滅私奉公などの無我風言辞でエゴを隠し、責任を回避しながら、個々人の私利私欲を実現しようとする、醜怪な欺瞞が国中で蔓延った。
今、この悪夢が理論武装したバージョンアップ版でよみがえる可能性がある。
犬が自分の吐いたものに戻るように
愚か者は自分の愚かさを繰り返す。
(聖書 箴言26章11節)
今や、大組織のトップ意思決定者でさえ、ポジショントークしかせず、それの何がいけないのかも理解できなくなってる。
その、きれいごとのおとぎ話に田吾作どもがのせられ調子こいて暴走して戦争をおっぱじめる。
この前の悲惨極まる敗戦を招くまでのパターンの拡大相似形を1ミリ違わずなぞることになる。
今度やったら死者は310万人どころではなくなる。
ベトナム戦争MAD paint it black和訳
なぜ殺しを正当化するのかといいますと、それは「自分が生きるべきだ」という前提があるからです。しかし、どんな生命も、どんなに踏ん張っても、生き続けることはできません。誰でも最終的には必ず死ぬのです。
このことを理解することが、真の智慧であり、真の理性です。生きることは当てになりません。死こそが確実なものなのです。「なんとしてでも生きるべきだ」と、
これは、世の中にあるような偉ぶった思想ではありません。世界には「汝、生命を愛しなさい。誰かがあなたを殺そうとしても、あなたはその相手を殺してはならない。赦しなさい」などといった思想もありますが、これには少々傲慢な気持が含まれていますから、周りの人から見れば、なんかイヤな人だなあと思いたくもなります。
そうではなく、お釈迦様がおっしゃったように、「生きているものは誰でも死にます。私も必ず死にますよ」と観察するなら、自分を殺そうとしている相手を殺す気にもなりませんし、傲慢になることもありません。見栄を張ることも、威張ることもなく、謙虚に、正しく生きていられるのです。
Idaṃ kho, bhikkhave, atthavasaṃ paṭicca ‘maraṇadhammomhi, maraṇaṃ anatīto’ti abhiṇhaṃ paccavekkhitabbaṃ itthiyā vā purisena vā gahaṭṭhena vā pabbajitena vā.
お釈迦様は、人々が道から外れないようにと考えて、「私は死ぬものである。死を乗り越えていない」と観察してくださいと説かれました。
ここで、お釈迦様のお考えがよくおわかりになると思います。途轍もない慈しみと深いあわれみをもって、私たちが間違った道に行かないように、正しい方向へと導いてくれているのです。道から外れないよう、そのお守りを教えてくれているのです。
そんなこと言っている場合ではないのです。
真昼の煌煌たる太陽のような明々白の事実なのに、大多数の人々は、そのあまりの眩しさに目を本能的にそらせる。死をあの世に引越すことだと共同幻想し、生涯一瞬たりとも死の事実を直視しない。
人間が自分は死ぬ定めだと本当に認めれば、人間は自由になり世界は平和になる。
とブッダは明解に説いている(⇒※ダンマパダ6)
しかし、著名な知識人も含む大抵の人間は、自分が死ぬ定めだと認める恐怖から意気地なく逃げて「自分に死などありえない」という我有妄想に昔も今も取り憑かれている。
だから自我の牢獄から自由になれず、世界中で殺し合いが止むことがない。
殺す者と殺される者が、同じひとつの愚かな妄想を共有して仲のいいこと。
これで、世界中の賢が、国連なんかで集まって、殺し合いだけ止めたいなんて言ってるんだけど、
無理!
‘‘Byādhidhammā jarādhammā, atho maraṇadhammino;
Yathā dhammā tathā sattā, jigucchanti puthujjanā.
‘‘Ahañce taṃ jiguccheyyaṃ, evaṃ dhammesu pāṇisu;
Na metaṃ patirūpassa, mama evaṃ vihārino.
‘‘Sohaṃ evaṃ viharanto, ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;
Ārogye yobbanasmiñca, jīvitasmiñca ye madā.
‘‘Sabbe made abhibhosmi, nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;
Tassa me ahu ussāho, nibbānaṃ abhipassato.
‘‘Nāhaṃ bhabbo etarahi, kāmāni paṭisevituṃ;
Anivatt bhavissāmi, brahmacariyaparāyaṇo’’ti.
(生命には)病と老いの本質があり、また死の本質があります。
本質のごとく、生命は生きています。
この本質を、世間の人々は厭い嫌います。
しかし、たとえ厭い嫌っても、
これが生命の本質なのだから、結局はそうなります。
ゆえに、それを厭い嫌うことは、ふさわしいことではありません。
そこで、常に法を観察して生きるなら、
無執着の真理を了知して、健康にたいする酔いと、
若さにたいする酔いと、命にたいする酔いがなくなります。
一切の酔いを乗り越えます。
すべてのものから離れること、それこそが安穏であると見て、
涅槃を目指し、精進を起こします。
今の私には、俗世間に戻り、欲を喜ぶことはできません。
私は逆戻りしない道に入りました。
修行を完成する道に入りました。
(了)
(My Favorite Songs)
Bobby Hebb - Sunny (Official Audio)
ボビー・ヘブ畢生の名曲「Sunny」1966年発表以来、世界の名立たる歌唱力自慢のカヴァーは数百にものぼるというが、おれの聴いたかぎり、このオリジナルに勝るものはないし、これからも出ない気がする。それくらい独特の完成された魅力がある。奇跡の一発屋ボビー・ヘブ!
1960年代の名曲「サニー」聴き比べ全9曲!・・・そこまでやるか・・・【番外編・・・マニアック観賞室】
ミコのもいいなあ。こっちが先だったとは聞いてびっくり、なんかおしい!
(過去記事編集再録)